『海原』No.17(2020/4/1発行)誌面より
中村晋句集『むずかしい平凡』
自由な清潔感 山中葛子
われわれは
俳句という名の
日本語の最短定型詩形を
愛している。
―金子兜太『海程』創刊のことばより
句集の扉にかかげられた兜太師のことばは、中村晋氏の“俳句を愛する”という一点を何らかの形で受け継ぎたいという私信による、未来指向をたっぷりと令和の只今に運んでいよう。
あらためて、「現在ただいまの自由かつ個性的な表現を繰り返し、これによってこの美しい魔性を新鮮に獲得しようというわけなのだ」の“創刊のことば”が蘇える懐かしさは、
フリージアけっこうむずかしい平凡
句集名となった、可憐な花の香りを咲かせる「平凡」への決意表明でもあろうか。「けっこうむずかしい」という日常語が「美しい魔性」を獲得したような軽やかな表現への挑戦を果たしていよう。
本句集は四章に編まれていて、先ずは近作による「むずかしい平凡」の章が、夜明けのような「ふくしま」の時空を座の文学として展望させていよう。
植田百枚水をこぼさぬ水の星
まんまんと水をたたえた田園地帯の情景は、まばゆいばかりの「水の星」を巻頭句にして明るい。
祖父病んで父祖の田ただの夏草に
雪つむ木々書体も文体も肉体
雪に刺さって雪映すのみカーブミラー
雪のち雪東北の田の深眠り
ここには、受け継がれゆく祖先の気質や文化が、「雪」の大自然界と対峙する生きざまを映像化した、畳み込むような韻律がみちびきだされている。
蟻と蟻ごっつんこする光かな
「さあ、みんなあつまれ」と言っているような、光の中に溶け込んだ時間が、ドラマチックに進行している言語感覚のゆたかさ。「海程」から「海原」に受け継がれてきた俳諧自由をめざす知的な抒情が眩しいばかりである。
さて、ことに注目する次の「春の牛」の章は、「平成二十三年以降東日本大震災に関わるもの」とされた「フクシマ」の表記による生死が問われる章である。
春の牛空気を食べて被曝した
あるとき自分の中からぽっと出てきた記念になる句だとされる、この句との出会いは、〈猪がきて空気を食べる春の峠〉の、兜太句がすぐに浮かんでくる。しかし、内容は全く別世界を想像する次の句との出会いである。
末枯れや未来とは今のことでした
「今」を「末枯れの未来」と表現した、強烈なパンチを食らっているストレートな感情は、テクニックを超えた本能の呟きの呼吸音となって伝達されてくる。
じーっと見てこんな枝豆にもベクレル
ひとりひとりフクシマを負い卒業す
被曝とは光ること蟻出でにけり
光ること除染後の田をひた打つこと
「ベクレル」という見えないものが見えてくる被曝の地に暮らす緊張感。「ひとりひとり」の巣立ちと向きあっている一人の教師の万感が胸に迫ってくる。
「光ること」とは祈りであろうか。そして祈りとはかがやくことであろうか。ふとたちこめてくる柔らかな空気は、「フクシマ」から「ふくしま」へのターニングポイントであろうか。〈東北に肉厚な闇盆踊り〉の句は、不思議なほどの闇の艶めきを、更に壮大なポエジーとして、次の句を登場させている。
フクシマよ夭夭と桃棄てられる
生きるため桃もくもくと棄てる仕事
桃棄ててふくしまをなお愛すなり
棄てられた桃さえも「夭夭」と若々しく和らいだ美しいさまを描くロマンは、『詩經國風』を思うことばの大空間を生みだしている。ことに『詩経』の中でも最もポピュラーな詩編「桃夭」を思う兜太句集『詩經國風』への思いが乗り移っているようだ。
東北は青い胸板更衣
一転して「ふくしま」に立ち戻る「青い胸板」「初期句編」の章は、
大学出て唄へたな妻菠薐草
吾子胎るか雫を割って柿芽吹く
授乳の妻へ夜明け白鳥鳴きわたる
草田男忌朝からたっぷり湿る吾子よ
いつも月あり夜学子と靴探すとき
遅れきて喪服のままの夜学生
夜学の参観あいつの父が仕事着で
夜学子離郷す日本語拙き母喚き
わが子の成長を見つめる家族の日常。そして、天職のような教師のやわらかな眼差しに包まれた、夜学子の生活感がいきいきとかがやいているのだ。
中村氏の、“俳句を愛する”自由な清潔感がつらぬかれている原郷としての「ふくしま」。愛のテーマをかがやかす牧歌的抒情と言えようか。